地震は3月11日14:45分ごろ、長男のお迎えに行き、8階の部屋に入った直後に起きました。
部屋が縦に小刻みに揺れとっさに机の下にかくれました。ものすごい轟音と共にタンスやテレビ食器棚が倒れ、たくさんのものが飛んできました。大きな揺れはとにかく長く、長男はおじいちゃーん!おねえちゃーん!!と叫びながら私にしがみつき泣いていました。
揺れがすこしおさまり恐る恐る机下から出て玄関に行くと、下駄箱の中身が飛び出て靴が山積みになっています。玄関先においてあったバックをつかみ靴の山を上り外に出て、8階から非常階段で下に降りました。
裸足や靴下のまま降りてきたマンションの住人もいらっしゃり助かったことを泣いて皆で喜びました。
その間も余震はひっきりなしに起きました。その日は向かいの消防署に特別に避難させてもらうことができましたが長くはいられないとのことで次の日は1キロほど離れた小学校へ毛布や布団を持ち歩いて移動しました。
避難所なら暖かいものや救援物資があるだろうと思いましたが物資は少量しか届かず、暖をとれるものもありません。 一日の配給が4人家族でおにぎり一個。水1本。バナナ4本。
トイレは学校のプールのトイレのみを使い、30分以上並ぶような状態です。 とにかく寒く、待っている間に体は冷え切り、寒さと余震、これからの不安で眠ることはできませんでした。
その上トイレの帰りに暗闇で思い切り転び手首や肘を痛めましたが手当してもらうほどのケガでもなく、、。 捻挫とはいえ痛みは酷く、避難生活にはかなり支障をきたしました。 翌日も物資は届かず、電気も水もいつ復旧するのか、このままここにれば衰弱していくだけかもしれないと思いました。
二日目、三日目となるうちにジワジワと先の見えない恐怖が押し寄せてきます。とにかく子供を安全な場所に避難させたいと、実家の佐賀に避難することを考えはじめました。車がインサイトのハイブリットカーで満タンにしていたため、600キロ以上走行可能ということがわかっていたのは幸いでした。ラジオで山形空港が稼働していることがわかり、深夜に出発して4時ごろ空港につきました。
空港にはすでに空席待ちの人達がたくさん並んでいましたが臨時便がでたおかげで羽田行きに乗れ、夜には佐賀に帰ることができました。空港には東北の出張で地震に遭ったサラリーマンの方が多かったです。仙台からタクシーで山形空港まで来たという方もおりました。飛行機に乗れた時は安堵感で涙が止まりませんでした。
佐賀の実家に着くと、子供たちは従妹に囲まれ安心した様子で嬉しそうに遊んでいます。
暖かい食事を取りお風呂に入ると、まだ今日も避難所で寝る知人家族や赤ちゃん達、隣で寝ていた老夫婦の顔が浮かび、そして沿岸での津波の恐ろしい映像を改めて見た時、自分たちが助かったから良かったでは済まされない、被災していない土地からできること、現場を知っている私達だからできることがあるのではないか。お世話になった生産者さんの工場や畑は流され、安否のわからない方もいる。あの方たちがいたから地元の新鮮で安心な食材を食べて健やかに暮らせていたのに。何かできることはないのか。と、いてもたってもいられなくなりました。
心境を友人に相談したところ、沢山の友人が支援を希望してくださり、この取組を始めることを決めました。
理解してくださったみなさんにはほんとうに感謝の思いでいっぱいです。
あの美しい東北を取戻して復興する手伝いをしたい。私たち有志が本当に困っているところ、必要な所に支援をしたいです。
テレビでは地震の番組は少しづつ減って来ていますが、被災者が普通の生活を取戻し、現場が正常に機能するには長い時間がかかります。地域の人達が支え励まし合って生活していかなければなりません。
私も仙台に戻ったら、微力ですが再建に向けて共に現地での活動を始めます。
現場を知るものにしか伝えられないこと。内外に知ってほしいこと、お互いに意見交換をして輪をつなげていけたらと思います。
勢いで立ち上げたばかりのこの取組みですが、皆さんで少しづつ良いものにできたらよいなと考えています。また、環境や生活の見直しをしてこの時代を生きていく子供たちのためにも、今後どのような再建をしていけばよいのか みなさんで考えていければと思います。
私も仙台に帰れば新生活に向けて家の片づけなどに追われます。洗濯物も干したまま、冷蔵庫の中身も食器も飛び散ったまま出てきたので帰るのが怖いですが、、 (2週間後に片付けにいきました。)
今できることをそれぞれの立場で少しつづ。
どうぞよろしくお願いいたします
2011.03.16 砂子 啓子